軍艦島の歴史をご紹介!
閉山して40年余。
その幽閉の島はかつて、炭鉱で栄えた産業の街だった。
東京ドームより少し大きなこの島には食堂・銭湯・学校はもちろん、パチンコ店・映画館・プールなども備えられており、 最盛期ではなんと約5200人が暮らしていたという。
しかし1960年以降になると、主要エネルギーは石炭から石油へと変わり、年間約41万トンも産出していた端島の炭鉱も次第に廃れていく。
活気に溢れた島から人々は消え去り、その遺構を残したまま島は閉山となった。
軍艦島の概要
名称 | 端島(はしま) |
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所在地 | 〒851-1315 長崎県長崎市高島町 |
閉山 | 1974年(昭和49年) |
座標 | 北緯32度37分40秒、東経129度44分18秒 |
面積 | 0.063 km² |
年間平均気温 | 15℃~16℃ |
最盛期人口 | 5,267人(人口密度は83600人/km²で世界一) |
なぜそこに島があったのか?
そもそも端島は、南北約320メートル、東西約120メートルの小さな島だった。その小さな島と周囲の岩礁を、合計6回の埋め立て工事により約3倍の面積に拡張したのが端島の始まりである。
そんな端島で、1810年頃、石炭が発見される。
そして1890年に、三菱社が島全体と鉱区の権利を買い取ったのを皮切りに、本格的に石炭の発掘が開始された。
島の繁栄
1916年、日本で初の鉄筋コンクリート造の集合住宅「30号棟」が建設。
良質な強粘炭が産出され、最盛期の1941年には約41万トンを出炭した。
1960年には、人口が最盛期を迎え、5,267人もの人々が暮らしていた。炭鉱施設や住宅はもちろん、学校、病院、寺院、映画館、パチンコ、美容院、スナックなど、施設が充実していたため、端島はどんどん繁栄していくのだった。
閉山
1960年以降、主要エネルギーが石炭から石油へ移行したことにより、端島の炭鉱は衰退。 数百万トンの石炭を残したまま、1974年1月15日に閉山、無人島になった。
端島の歴史年表
1810年 | 端島で良質の石炭を発見。 |
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1890年 | 鍋島孫太郎が三菱社へ10万円で譲渡。 |
1891年 | 飲料水供給開始 |
1897年 | 端島が高島の出炭量を抜く |
1916年 | 日本で最初の鉄筋コンクリート造の集合住宅「30号棟」が建設 |
1939年 | 朝鮮人労働者の集団移入が本格化 |
1941年 | 出炭量が約41万トンを超える |
1960年 | 人口が5,267人を突破。 |
1974年 | 閉山 |
2001年 | 高島町(当時)に無償譲渡される |
2005年 | 長崎市が所有権を獲得 |
2009年 | 上陸・見学が可能に。 |
2013年 | Google ストリートビュー公開 |
2015年 | UNESCOの世界遺産に登録 |